新・戦争学 (文春新書)
※ 航空作戦では戦闘機の損害数よりパイロットの損害数が決定的になる。この点で今日の自衛隊のパイロットはお寒い限り p102
※ 大戦を通じて艦隊の主力、空軍の主力、陸軍戦力の半分を太平洋戦線に投入した。米国の実質的な戦争努力は対日戦争だったのである。
もし米国が日本と中国をめぐって争ったのであれば、(中略)フィリピン奪回で日本の休戦の求めに応じたはずである。日本の軍部独裁を粉砕するのであればマリアナ海戦で日本の休戦要求に応じていればよかった。ルーズベルトの対日戦争目的は上記のいずれでもなかったのである。歴史の教訓に従えば、ひとつの大洋に二つの海洋国家は存在できない。
その上、第一次世界大戦と第二次世界大戦の谷間では人種差別は白人社会において当然のこととして認められていた。その「黄色いサル」が白人国家並みの態度で海洋覇権を求めた始めたのだ。必然的に「黄禍論」が欧米で盛んになった。米国の戦争目的の本質はこれであって、「日本という国家を抹殺」することであった。「全面戦争」である。 p110
※ したがって、戦争末期における日本の戦争目的は「生存」に変わっていた。だから硫黄島、沖縄の会戦と神風特別攻撃隊の戦争の目的は、軍事合理性を超越していた。それは子孫に民族の闘魂を伝承し、「愛国精神」を伝えることであった。マリアナ会戦以降の日本の戦争は、作戦論だけでは論じられない。 p111
戦争学の続編であるが古い記憶をたどれば戦争学自体で述べていたことは「歩兵」と「騎兵」が戦場の主役を常に奪い合う歴史を続けてきたという内容だったように思う。これは広義において歩兵=砲兵 と 騎兵=戦車 なども含まれる。
第1次大戦において機関銃により歩兵優勢の塹壕戦が第二次大戦によって戦車による騎兵優勢に変わる。これがアレクサンダー大王の騎兵やイングランドの長弓兵の時代からシーソーゲームを繰り返してきたというわけであるということらしい。
まあ、どうでもいい内容ですな。